昭和57年6月10日 月例祭における教話      【 末永信太郎 】



 先日、こういうものが出て、まだ西岡先生がおられる頃に、私のここに手控えにしたものを先生にみんな渡しますから、それを西岡先生の字で書いてあるのが出て参りました中に。色々ある中にこういうのがございました。皆さん、どうでも一つこのところをね、皆さんが理解されて、そして、このところに神様の願いを信心して受けてくれよというのは、こういうおかげを願うのであり、また、このところのおかげを頂く為の日々の信心のけいこだという事を、一つ思い込んで合楽通いをして頂きたいと思うんです。読んで見ましょう。

 「天地の気息に合わせ」と。天、きは気候の気です。そくは息する息ですね、天地の。天地の気息に合わせ。宇宙の呼吸に合わせる。大生命の流れの中に神秘な体験を積む事を修行とすると。大生命の流れの中に、神秘の体験を積むことを修行とする。私は合楽で修行をすると、信心のけいこをするという事は、この修行を。ね。今朝から皆さんに聞いて頂いた事でしたけれども。皆さんが、あの、祈念詞を奏上されます中に、教祖の事が唄ってございますね。

 世の様々な難儀に出で合いたまい、ね、実意丁寧神信心によって、ね、神と氏子のいわゆるあいよかけよの生活はじまりというところがありますでしょう。ね、あいよかけよという言葉は、金光教では沢山使いますけれども、そのあいよかけよでの生活はじまりと。これは、もう私は、神様と金光大神が神秘の世界に住んでおられる様子であると思うです。ね。もう、本当に有り難い、勿体無い、不思議な世界に住んでおられる。

 それは、様々な難儀に出で遭うたびに、その力、その働きはいよいよ深いものに、本当なものになって来たという事であります。ね。だから、そういう世界に住まわせて頂く修行と、最後にここには書いておりますですね。ほらあ、天地と共に呼吸するとか、天地の気息に合わせるとかと。大変な難しい事であろうと。まあ、思いますよね、誰でも。ところが合楽では、ね、御理念によると、それが誰でも、ね、そのおかげの頂けれる手立てが説いてあるのが、御理念だと思うんです。

 ですからね、そこんところに焦点を置いての、いわゆる、あいよかけよの生活が出けるような。神様と一緒に、言うならば呼吸し合い。ね。難しいと思わずに、ね、本気で、んなら合楽ではその実験実証を様々な形で現しておられる方達がございます。ね。いかにも神様が付ききりに付いておられるような感じ。神様がいつももの言いかけて下さるような感じ。ね、素晴らしいタイミングです。ね、その中に、本当に今日も不思議な不思議な働きの中に、言うならば神様とあいよかけよの生活が出けて来るその体験を、いよいよ育てて行くという事なんです。

 2~3日前、ここも参っておられるでしょうか。熊本の木村さんという方がおられます。親子で洋装店をなさっておられる。もう、先だってから、もう毎日毎日電話かかってきて、どうぞおかげ頂きますように、どうぞという、もういわゆる、まあ、金銭関係の事でございました。また、人間関係の問題もございましたが。もう、大変な苦しい中を通って、もうどうにも、にっちもさっちも行かなくなった。

 そこで、まあだ、お子さんが、まあ、小学校一年か二年でしょうか。子供にいくらかのお金を与えて、自分が里に一遍ばっかり帰っておきなさいて。お母さんはある考える事があるからと言うので、自分は合楽にこうやって、修行生の方達と一緒に修行をされた。ね。はあ、家ではその、何日も帰って来られんもんですからね。まさかという風に、こう大変心配されたそうです。そりゃ、そうでしょうね。

 子供は里に帰らして、自分はどこに行ったじゃ分からんて言うのですから。ところがです、2~3日前、電話がかかってまいりましたが、親先生、もうとにかく最近のおかげというものは、もうそれこそ置いた物を取るように。ね、いくらいくらお金がいると言いよると、ちゃんといくらいくらのお金が集まり、あの人に合わねばならんとその人がやって来てくれる。もう、こんなおかげを頂き続けて良いものでしょうかという電話がかかって来たんです。ね。

 言うならば、天地の気息に合うとか、神様と共に呼吸するというのは、こういうおかげが募る事だ。しかもそれが、ね、より素晴らしい事に、ね、繋がって行き、大きゅう育って行くことなのです。ね。皆さんがよく言われます。ある心配事でこう、自動車で運転して参りよりましたら、前を走っておる、言うなら自動車が、ね、気がついた時に思うてみたら、自分の車と出会う車ごとに39という数字があったと。

 ははあ、この苦しいこの事を39で受けろと神様が言うてござるなあと思うたら、心がスッキリした、いわゆる有り難うなったといったようなね、体験を皆さん積んで行かれるでしょう。私は信憑の世界だと思いますねそれは。ね、そういう世界がね、四六時中、言うならば頂けれる、いや死ぬまで、いや、あの世までもそれが持って行けるような神秘の世界を開く事の為の体験。そういう体験を積んで行く事のための修行を合楽ではするんだという事でございます。ただいま、臼杵の志賀さんのお届けがございましたが。

 あちらの、呉服屋さんですが、(    )の方に、ご主人が大変お酒が好きで、お酒のためにいつも失敗をしておられる。その事を一心にお願いをされる。あちらでは共励会があっておるのですからね、毎月。それで、ご主人が最近、酒のために大変な失敗をなさった。以来、おかげで、もう酒は止める、焼酎らしいですね。だから、毎日その、焼酎を飲まれる。その焼酎を買いにに行ったその金だけを神様のお供え、もう自分がいっぱいお供えがありましてから、そういうお届けがあったんです。

 今日はね、もう次々とお届けがありました中にね、東京の私の幹三郎の嫁の姉さんが東京におります、から手紙が参りまして。子供がヘルニアで手術をせんならんからお願いしますと、こう言う。したらお母さんが(     )来て、どうぞ手術せんで済むようなおかげを頂きますようにとお願いをしてあった。病院に行ったところが、先生の都合で手術が出けなくなった。もう、それこそ明くる日から調子が良くなった、子供の。

 もう二ヶ月ぐらいになりましょうけれども、もう普通と一つの変わらんおかげを頂いて、とうとう、まあ、手術せんなりにおかげを頂きましたという手紙が今日参りました。これは、日田のまあだ一周間ばかり前でしょうか。朝の御祈念に二回か参ってまいりました。それが、その、だいたいは綾部さんのところに頼って来れる、(ぎりじではない人なんです、まっ、いじあいの?)お得意さんなんです。

 で、ある事柄から、こうちょっと、何ちゃらゴタゴタがあって、もう綾部さんところからいくら頼みに行かれても、もう綾部さんとこの先は売らんというごたる風で、その、もうそういう断絶になっておった人の息子さんですから、その、だいたいは綾部さんていう、頼って来れられない感じの人なんです。ところが、4~5日前、4~5年前でしょうか、電話がかかってきたと。もしも貴方が参りよる合楽に僕を連れて行って参って下さいと、こう言う。

 もう体の調子が悪いから医者に行ったら、その(   )何とかが出けておるから、それを手術せなければならんと言う。ね。僕はどうしても手術しようごとない。だから、僕を連れて参ってくれと言うて、朝の御祈念に自分の運転で綾部さん乗せて、二回か参ってまいりました。今朝方から、綾部さん参ろうとしておられたら、電話がかかってきたと。

 医者に行ったら、もうその出けてとったつがなかち。だから、あんた、これは手術する必要はないよち言われたけども、どうも僕は心配だから、もう2~3遍、他に医者にかかってから、もういよいよ間違いないち医者が言うたら、お礼参りをするけん、どうぞよろしゅうて電話がかかってきた。なあ、はじめの分かる、ね、初めての方ですから仕方がない事ですけれども。今日、そういうお届けが続いておったんです。ね。

 どんなに考えても、言うなら現代の医学ではと言うか、例えば、んなら人間関係の場合であっても、不思議で不思議でたまらんような、そういうおかげ。だから、そういうおかげを皆さんがね、頂き続けたらね、信心のけいこは出けんとですばい。今日は、皆さんに聞いて頂くような、こんな、ね。だから、願うても願うてもおかげにならんというところに、深い深い御神慮のある事を先ずは知らなければいけないです。ね。

 ここでは一切神愛とこう言われる、その神愛の内容を、本当に分からなければいけんのです。今日は、昨日でしょうかね。ここで、梅山先生達が親子三人で一生懸命、修行が今出けております。ちょうど昨日が、改めて修行に入って丸一年になるというお礼のお届けがあった。ところが、朝方、神様にお知らせを頂いた。雨という字を書いて、下にこう、しこうしてという、こう字書くと、あれは何て言うんですか。あ?縦横の縦と言うんだそうですがね。字引きで引いてもらいましたら、求めるという事だそうですね。

 だから、私はその梅山さんに申しました。梅山さん、これはどうでもね、神様が求めておられる信心を、一つ覚える、体得する。日々の実験実証の中から、これが絶対なモンだとして頂けれるようになったら、ね、もういつ布教に出てもよかばい。だからその事をね、必ずしも10年も15年も修行せんならんという事はない。本気でそのところが分かったら、布教に出てもいいよと言うて、まあ、申しました事でしたけれども。

 ね、例えばお天気の日は有り難いけれども、雨の日は有り難くないというような事では出けん。お天気の日が、有り難い、誰でも、んなら有り難いけれども、雨の日のしるしい事は誰でも有り難いとは思えない。その人が有り難いと思えない事を有り難いと分かって、感じれれるようになった時が、布教に出てよか時じゃと私は申しました。ね。教祖様が様々な世の難儀に出で合いたまい、その出で合いたまう度に、神恩、いわば神様のお心を深く、広く分かってお出でられた。

 そして、あいよかけよの生活が始まった。言うならば、神様と教祖金光大神の中に合楽世界が隔てて来た。そこから限りなく産みなされて来るおかげは、ね、いわばただ、不思議とは言うまじきものと言いながら、不思議なおかげが受けられる。今も申します、不思議なおかげが受けられるという事は、ね、言うなら神秘の世界に住まわれたという事になるのじゃないでしょうか。そういう世界に住まわせて頂く手立て、けいこなんです。

 ね、今ここで読ませて頂いたようにです。ね。そういうおかげの頂けれる体験を日々積んで行く手立て。ほれは、もうなかなか難しかろうと。なるほど、私どもは、例えば、んなら以前の私がこれ聞いたら、ほお、そげな世界もあるばいな。けども、なかなか、それは出けるこっちゃなかろうと。教祖が仰る、この方の事を生神、生神と言うけれども、皆もこの通りのおかげが受けられる、この方金光大神がおかげの受け始めじゃと、こう仰せられる。

 私もそげん思うておった。とても、そげな、こう生神様てん何てんちゅう事はとても出けん。そげなこと、そげなおかげは頂かんでんよかけんで、まあ、とにかく商売が繁盛さえすりゃよか。そすと、神様がどんどん御用させてもらう。そげんとが、あいよかけよかと思いよった。ね、神様がおかげを下さる。たら、こっちも本当お供えをする。あいよかけよと。そげな風に感じておったんですけれども、そういう事ではない。あいよかけよの生活がはじまるという事は、神様との間に、いわゆる交流するもの。ね。

 そういう、言うならば不思議な世界が、なら、私どもの実験、そこから実証が生まれて来る。それをいよいよ、確定、その、木村さんじゃないですけれどもね。ね。ちょうどその電話のかかって来たすぐ後でした。私が四時の御祈念を済んでから、もう下がろうとしよる時に、その木村さんからそんな電話がかかって来た。ほれは、もうこげなおかげ頂いて良かろうかと、毎日思うており、思いますと言うが。ね。そういうおかげを、もっと垢抜けしたものに、もっと有り難いものに。

 例えば、借金払いのために、その、万事御都合お繰り合わせを頂いて行くのではなくて、残って行く上にもです。ね。そういう働きを受けて行けれる、それを育てて行く事だよと、まあ、申しましたでしたけれども。そのすぐ後に、今、伊万里から中原という青年の方が、お道の教師を志しての修行に、まあ、入る。まだ、御信者時代から非常に、まあ、何と言うでしょうか、まじめな信心をします。神様からお知らせを頂きます。

 その日も、私と一緒にここで四時の御祈念をさせて頂いておったら、小さい子供の声でね、お前にはほうれん草はやらんち言ってから、まあ、そんな口調で頂いたっちゅうんです。どういう事でしょうかと。ほうれん草という事は、皆さん分かるですね。ね。私があの、四年半の修行というのは、もう何もかも黙って一切を頂くという事でしたね。ね。ですから、結局ほうれん草というのは、ね、力を頂く、力のつく物だという事。あの、ポパイの漫画で、ポパイが元気が無くなると、そのほうれん草を食べる。食べると途端に元気がモリモリ出るというです。それなんです。

 ね、それこそ合楽に修行に来て、道の教師にでもなろうかと言うのですから、とても力を頂かなければ、徳を頂かなければ人が助かるといったような事は思いもつかんて。思い、まずは自分自身が助からねばならん。自分が力を頂かなければならんという願いで、参って来とるんでしょう。ね、それに神様がその、立てがうように、子供の声で。神様も子供になっておられる。向こうも子供、子供同士のような感じ、神様の目からご覧になれば、お前にはほうれん草はやらん。

 だから、私がその申します。ね、神様がやらんと言われても、それでもおすがりし抜いて頂いて行かなければいけないよと。ね。皆さん、ほうれん草が頂きたい、ほうれん草を食べれば力になる。ね、神様がある場合には皮肉に、ある場合にはたてらうようになさるような場合がございますけれども。ね。可愛いの、言うならば一念の現れが、そういう形にもなって来る場合がございます。ね。力を頂きたいばっかりに来とるのじゃない。ほうれん草はお前にやらんと。

 そんな事を神様仰らずに、どうぞほうれん草を頂かせて下さいと、力頂きたいです、とすがって頂かなければいけないよと。皆さん、どうでもそのほうれん草を頂く。なら、ほうれん草とはどういう事かということになりますでしょう。ね。もう、本当にこの難儀から抜け出たい。ね、今日も先ほど保育園に勤めておる先生が参って来て。もう、とにかく先輩の先生に、もう大変意地悪いとがおる。もうどうにも出けないとがおるて。

 ほれで、理屈の上では分かっとる。はあ、神様がこれで修行させて下さるなあと分かっておりますけれどもと言うたから、私が、分かっとるから、んなら今日の御理解頂いて腹ば決めなさいち言うて、まあ、後は申しませんです、先ほど。ね。お話を聞いておるから分かっておるでしょう。ね、何が何でもそうです。この難儀の問題こそ、ほうれん草なんだと。だから、それを有り難く頂く事になれば、必ず力がつくんだと分からせて頂くという事も、その頂き方もです。ね。

 それこそ、言うならば、ね、美味しい味付けをして頂いて頂く事ですから、ただがむしゃらに頂け、ただ辛抱せろ、辛抱せろだけではない。有り難く辛抱の出けれる手立てを、御祈念によって解く訳なんですから。ね、子供でもその気になれば頂けるという風に、私がいつも申します。皆さんだから、そのほうれん草をね、神様が、ね。しかしその、神様のその教導をなさるテクニックというものを感じますね。力が頂きたいと言うて参って来とる、ね、修行生に対して、お前にはもうほうれん草を与えんぞと。と言われりゃ、やっぱり、そんな、ね。

 そのほうれん草を頂いて、力を頂きたいばっかりに修行に来とるのですから、どうぞと言うて願う。そすと神様が、そんならと言うて下さる。まあ、そげんしてお願いしとるけん頂かん訳にはいかんというような、その遍のテクニックがね、素晴らしいですね、合楽の場合の教導は。神様が教導して下さるんです。ね。それこそ、現代医学ではどうにも出けない、そんなはずはないのに、んなら、ヘルニアがあっという間に治っておったとか。ね、(     )出けておる、手術しなければと言われるのが、ね、4~5日して病院に行ったところが、もう無かったとこう言うようなです。

 ね、まっ、そういう、ならおかげは枚挙に暇がない訳ですけれども。なら、そういうおかげだけを願う信心でもし終始したとするならば、合楽通いの値打ちはないでしょうが。先ほど西原さんが言われる。まあ、問題は沢山、色々ございますち。言うなら、まあ、難儀な事はいっぱいありますと、こう言うのでしょう。けれども、こうやってお月次祭にはお参りが出けるけん有り難いて。だから、お参りが出ける事だけに有り難いだけじゃ出けん。ね。その、ある様々な問題そのものをほうれん草と思うて、惜し頂いて行く心が、いわゆるそれを実験実証して行かなければ、力はつかん。

 様々な難儀があるからこそ参りよると。それをお取次ぎを頂いて、お願いをしておかげを頂く。これが大体、私どもが過去にして来た信心でありましたし、また、そのおかげを頂く為の言うならば手立てというか、を教えて頂いただけで、それを力にする、徳にするという事は分かっておったけれども、その手立てを聞かなかったですね。和賀心になればおかげになれる、和らぎ賀ぶ心になればおかげになるという事は分かっておったけれども、その和らぎ賀ぶ心にならせて頂く手立てを説かなかったように思うですね。私どもは聞いてこなかったです。ね。

 御理念によると、ね、難儀という事はない。ね、問題はない。普通から言やあ難儀である、普通から言やあ問題である。けれども、その難儀を神愛として受けるのですから、もう難儀じゃないです、神愛。問題を、ね、それを問題とせずに、それを信心のけいこの手立てにして行くのですから、問題はその場で即刻消えて無くなるような世界に住むけいこをさせてもらうところから、言うなら神秘の正解が開けて来る。ね、言うならば、あいよかけよの生活をはじめる事が出ける。

 あいよかけよの生活とは、ね、神様と私どもが合楽しあえれる世界。ね、神も助かり、氏子も助かる世界。ただ神様にご迷惑をかけただけだ、おかげを頂いてお供えをしたからあいよかけよじゃない。神様も助かって下さり、私どももまた、一緒にこう助かり合うて行くためには、神様と私どもが拝み合う。神様の御働きそのものと拝み合うて行かなければいけない。そういう手立てを分からせて頂くのが、合楽のまっ、言うならば合楽通いの値打ちだという風に皆さんが分かって下さったら。

 ね、言うならばおかげの焦点が変わって来る。覚えて下さい。天地の気息に合わせ、宇宙の呼吸に合わせる。ね、大生命の流れの中に神秘の体験を積む事を修行とすると、こうあります。そういうおかげの頂けれる世界に住まわせて頂く。ところが、合楽ではその気になるとすぐ始まるでしょうが、そういう素晴らしいタイミングなんか生まれて来るでしょうが。だから、それをいよいよ徹底してね、あの頂いて、それをもっともっと人間の幸福の条件のすべてが足ろうような。

 しかも、それが大きく育って行くおかげですから、もう限りないものなんです。ね。そういう手立てを教えて頂くのが、私は合楽だ。御理念による助かりとは、そういう日々を、不思議な神秘、ね、言うなら神秘の世界に住まわせて頂くということ。それが頂けるという事が、ね、合楽信奉者の、まっ、一つの光にもなりゃ、またそれが輝きともなって来る。その光を、輝きを周辺にも広げて行く。

 最近、何ヶ所も共励会が始まっておりますね。小郡地区、こもりの地区。それから三潴地区という風に、次々としかも新しい信心を願い、求めて、もう本当に生き生きとした共励があっておるという事でございます。小郡辺りに共励会が出けたって、その先生方が何人も行って、行くがとあるだろうかというような感じでしたけれども、とてもとても、もう思いもかけない方達が集まって、まっ、昨日がそうでしたが、有り難い共励会が、今日は繁雄さんのお話を聞かせて頂いたんですけれども。

 あちらで、やっぱおかげを頂かれた。もう、実に格調高い共励会。大変素晴らしい。格調高い共励会。それはどういう事でしょう。今日、皆さんに聞いて頂いた信心は、もういよいよ格調高いお話だと思いますよね。そういう信心を、一つ皆さん、頂いて下さってね。そして、日々を有り難い、勿体無い、いわゆる神秘の世界に住んで頂きたい。それは、この世だけではない、あの世にまでもそれを持ち続けて行けれるという信心を、いよいよ目指さなければいけません。どうぞ。